夢の記録

水を飲み過ぎた さかなのような

20211101

記憶が都度刷新されるのでより多くの言葉を残している。
夢の記録というより日記帳にした方がいいのかもしれない。一応絵日記は3年くらいつけてるけど。

全部が感性のPhaseに行くべきだと思っていて、私はちょっと臆病で、スケッチを残しながら息苦しい雨を見ている。静止。映画を観た。最近は眼精疲労が酷くて、この前病院に行ったら可も不可もないような回答を貰った。最近の通院はすべて全部延命治療のようなぼんやりとしたものに感じる。たまに効くこともあるけど。「天才馬鹿」。松永天馬監督作品は全部劇場で観ているが、オマージュがいくつか存在したことを本作を観て悟る。最近話す人にアーバンギャルドの古いファンの方がちらほらいる気がする。おそらく丸くなってからしか現実として知らないので、昔を知りたかったというコレクター欲と、この時代に恋を知らなくて本当によかったという感情がひとつ。同監督の鳥肌実作品も観たいと思った。

友達と電話した。言葉はいつだって空虚で記憶もないけど、他者に共通点を見つけると安堵したような気持になる。成人してからの日々はいつだって わたしという肉体への違和感 をなんとか解消していく作業だった。許すことが沢山あり、泣くことが日常茶飯事だが、インターネットを彷徨うと精神科しか誘導されないことにも違和感を感じる。インターネットがつまらなくなったというのは簡単でしょう。いまのネットもネットで嫌いではない、好きでもないけど。

 

先生にiPhoneでいいから映画を撮れと言われた。確かに記録によればその段階かもしれない。計劃3。自分の顔を鏡で見ながら、imaiさんが「ADはストレスのない生活を送ってるから本当に肌がつやつやなんですよ」と言っていたことを思い出す。私の肌はどうだろうか。ビタミンC、堆積。脱毛の予約をしなければ。

早稲田祭で歌うことになったので少し禁煙しています。知識として色々なフレーバーをお菓子感覚で購入していたのですが、煙がないとこんなに呼吸が楽なのかと感動した。一種の自傷行為としては好きなのだけど。今月出すための作品制作をしていて、ちょっと考え方が変わった。私はずっと死にたくて、でもこれを伝えなければ死にきれないという主題を作品にすることだけが救いだったのだが、直情的なアウトプットよりもより練られた何かの方が健康(?)かもと思い始めたり。どちらでも生ではあるし。ていうか健康であることは関係ないのですが。洗練に別に興味がなくて、できることの方が大事だったのですが、過程としてダイアモンドをひたすらに磨き続けるような地味さがあってもいいのかなとか思い始めたのでした。ていうか私や家族がずっとポテンシャルを否定してきただけで、適性に無自覚で自傷することもイデアを信じないのも違うなあと。ここまで至れたのは多くの友人の協力あってですが…。結局生きてて快楽を得る手段なんて最初から直感してるそれしかないのよ。絵を描いていたら少し泣けてきた。他人が本当に苦手なのに、こんなにも人間を愛している気がしてくる。ふう。これは詭弁だな。2か月ぶりに体重を測った。友達が私が痩せたと心配してたけど本当に6キロほどなくなっていて笑えた。そんなことあるんだ。運動してないのに……

そういえば今朝は地震で目覚めました。最近は地震が多い気がする。東京、大丈夫かな~