夢の記録

水を飲み過ぎた さかなのような

20211027(夢ではない)

神経というものは不思議で、いつも死にたくなったり生きたくなったり収縮する。たとえば死に近づくと普通抱くのは恍惚感ではなく恐怖や生への渇望で、ただ朦朧とした不安感とて生きたいという願いとて曖昧なことには変わりないのだ。

意図せず誰かの支えになることが多いかもしれない。「あの時れんちゃんがいて本当によかった」と言われるたびに、少しきょとんとするが、私が誰かに救われている時、それを聞いた人々も同じ気持ちなのだろう。

私の似顔絵はいつも対象をつぶさに観察しているらしい。
愛とは興味だ。そして技術とは嘘だ。
人とお話しするのが大好きで、そのせいか無用なレイヤーが沢山見える。
被害妄想のレイヤー。今日もすこしだけ人が怖い。

 

大好きな友人やアーティストが最近続々と音楽をリリースするので嬉しい。
この週末は最たるものだった。そしてそれらを正しく咀嚼できた日々の連続であった。予定を詰めるのは私が正気でいるために必要な作業なのだが、〆切の量が限界を超えると布団から動けなくなると知らなかった。運動不足かもしれない。甘めの煙草とおにぎりを頬張れば食欲が消え失せて、音の鳴る箱で酒を煽るような不健康な週末を3セット。

盟友と言っても差し支えない、大好きな友達が昨日「作曲は好きだけど、はじめてライブの良さがわかった」と泣いていて、私もそれに負けない勢いで号泣していたのでなんかもうぐちゃぐちゃだった。友達の演奏を観に行くときはいつも気恥ずかしくて人の後ろに隠れないとステージを観れない。それはわたしが個々の友人たちに並々ならぬ愛着と崇拝を持っていて、でもそれを言葉で表現するのはお互いのためによくないから(作品にすべきかと)、いつも心の奥にしまっているせいでもあるだろう。わたしをみないで。でもいい音楽はそんな障壁をぶっ飛ばしてくる。

土曜のライブでもそうだった。うっかり最前列で観たのは少し気恥ずかしかったけど、はじめて見る見慣れた表情の機微に、私はずっと友人の顔をちゃんと見てこなかったのかもしれないと思った。スマートフォンの画面越し、薄暗い照明の下。臆病なわたしが気丈に振舞えるのはいつも守られた壁があるからだ。ATフィールド。お洋服、メイク、言葉。客観性の命綱。

音楽はすごい。そして友達もほんとうにすごい。尊敬しているし、大好きだ。でも私がこうやって思うすべてを感想として言葉にすることは、誰に対してもあまりに個人的になりすぎてしまう。ぼくはそれらをすべて声に出してまで誰かに聞いてほしいとは思わないし、それは個々(わたしでさえも)プライベートな話題にならざるを得ないから。誰も知らないわたしの記憶と現実の話と、いろいろな感情、夢、渦を巻いて成立している曖昧な関係や奇跡の数々。それらを上手くつないで救える(掬える)のが音楽だろうと思った。


わたしは人格に嘘をつくことで許してもらおうと思い続けてきた。エンターテイメントとしては大正解だし、演じる次元に飛ばすのも多少うまいとは思う。

でももしかしたら怯えてドギマギするのは棘の人間たちばかり見ているからで、私の好きな友達たちは案外、最初から、私の知らない私のことをじっと見て、守ろうとしてきてくれたのかもしれないな。最近は楽器に触るのも、制作するのもすこし怖くて不安で、人の顔色ばかり伺いながら絵すら嫌いになりかけていたけれど(構造的な問題もある)、死にたくないって思えたり、友達が死んだら本当に心の底から嫌だと、家族と同じレベルで涙がこぼれてしまうことを知ったりして、制作も生活も実は地続きにあるもので、どちらかを棄てなければいけないものじゃないのだと今更悟った。

 

この世の邪悪さはある。普通の社会にも、それ以外にも。でもそれだけを見てはいけない。零という名前に自ら込めた最悪な呪いを、ちゃんと見つめて、なくしてくれた人たちの名前を、これからも忘れたくはない

 

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